『良心の危機』翻訳こぼれ話
樋口 久
翻訳者(通訳者)の仕事は、いかに原著者(話者)の述べるところがうまく伝わっているか、という点で評価されますので、本来このように出しゃばった話など不必要なのです ― が、興味のある方もおられるでしょうから、今回の翻訳をめぐる事情のいくつかを紹介させていただくことに致しました。ひと味違った視点からこの本を理解し ていただくお手伝いになればと思う次第です。
1.本の紹介
Raymond Franz, Crisis of Conscience. Atlanta: Commentary Press.
初版発行:1983年 ― 1990年までに6刷
2版初刷発行:1992年(5月)― 1997年(4月)までに3刷
3版初刷発行:1999年(4月)[←今回日本語に翻訳したもの]
3版2刷発行:2000年(6月)
4版初刷発行:2002年(4月)
(ものみの塔協会の新しい出版物による方針変更などに応じ、新しい刷ごとに少しずつ新しい情報が加わってい ます。最新の第4版は、フランズさん自身の写真をはじめ、いろいろな写真があちこちに配されているのが特徴です。)
原著は英語。これまでに、イタリア語・オランダ語・スウェーデン語・スペイン語・チェコ語・デンマーク語・ ドイツ語・ポーランド語・ポルトガル語・ロシア語 ― そして日本語訳が出ています。なお、フランス語訳が間もなく出版される予定とのこと。
なお、『良心の危機 ―「エホバの証人」組織中枢での葛藤』という題名について、一言。私自身は、「良心の危機」という日本語ではあまりにも不自然だと思っていたのですが、だ からといって昨今の安物翻訳業界みたいに原題とはかけ離れた代物をでっち上げるようなこともできません。原題の直訳「良心の危機」はすでに関係者の間でで きあがっており、また各種の検索でもかかるよう、題名のどこかに「エホバの証人」という言葉を入れるべき、という意見も捨て難かったので、原著の表紙にち りばめられた言葉を眺めつつ、またフランズさんの意見も聞きつつ、(まるで俳句か短歌でも作っているような感じで)考えたのが『良心の危機 ―「エホバの証人」組織中枢の実状』でした。
ちなみに原著の表紙にちりばめられた言葉というのを直訳調で紹介しますと:
「良心の危機」
「神への忠節と自分の宗教への忠節との間の葛藤」
「ある宗教の最高幹部と、その人たちが他の人間の生活に対して持つ劇的な力についての、鋭い観察」
「もとエホバの証人の統治体メンバー、レイモンド・フランズ 著」
結局、最後には「中枢の実状」を「中枢での葛藤」に変えて、現在のものになりました。
ついでに雑談:表紙デザインの経緯について。三つほど作っていただいた中から、結構すったもんだした挙げ 句、最終的な表紙を選びました。落ち着いた感じに仕上げたいということで、カバー表面の塗装も「つやなし」を指定。ところが、ちょっとした手違いで、大量 に刷り上がった表紙はすべて「つやあり」のピッカピカ。「こちらの手違いですから、やり直します。ここで妥協してはいけませんから」と言ってくださったせ せらぎ出版さんとアイ・ピー・エムさんの良心的な対応のおかげで、すべてやり直し、無事「つやなし」表紙となりました。「良心の危機」という題名が効いていたのではないかとひそかに思っています…。
2.位置づけの微妙さと出版社探し
出版社探しは、苦労しました。やはりこの関係では、例えば「クリスチャンの立場からエホバの証人を攻撃する本」のような、単純な分類を求める心理があります。ところが、この本は、そのような分類にすんなりはまってくれません。つまり、ものみの塔協会やエホバの 証人を真っ向から非難・攻撃する内容でもないし、「私はあのカルトにいましたが、今は清く正しいクリスチャンです」という(キリスト教関係の出版物にありがちな)メッセージとも分類しきれません。極めて重要な本でありながら、その本質が理解されにくい理由の一つと言えましょう。(同時に、これこそが、日本語訳の必要が痛感された理由の一つでもあります。)
事実、「そのフランズさんとやら、今ではクリスチャンなのですか?」と聞いた教会関係者もおられました (「まあ『良心の危機』読んでください」とホンネを言うわけにもいかず…)。また、「エホバの証人の組織内部ではこれこれのことがあって」という話をすると、「そりゃ、そういうことも出てくるだろう。うちだって…」という反応も珍しくありません。これを真面目に考えていくと、「自分とエホバの証人とは、どこが違うのか」「ク リスチャンであるとはどういうことなのか」という本質的な問いに答えざるを得なくなります。教会の仲間とぬるま湯関係をニコニコ続けているときには、考える必要のない(できれば考えたくない)問題でありましょう。この意味では、教会関係者にとって、本質的な問題提起となるわけです。
いわゆる一般の日本人読者にとっては、さらに縁の遠い話題です。我が国には、そもそも、キリスト教を当然の 前提とする文化背景はありません。それどころか、「どっちみち、宗教なんて、わけのわからないコワイものだ」という意識が根強く見られます。キリスト教会 も創価学会もエホバの証人も統一教会も良心の危機もオウム真理教も、すべて「どうせ怪しげな宗教関係」という意識の中に一括される可能性が高いのです。
また、とにかく分量が多い(当時の私の「ワード版下」原稿で500ページ強)、けれども(翻訳なので)短くでき ない ― というのもつらいところでした。ある出版社には、いったん出版に同意して頂いたものの、版型・ページ数・内容の制約(「年代予言などを扱った部分を除いて の抄訳なら…」などと言われました)から、残念ながらお断わりさせていただく形になりました。「商業ベースに乗りにくい」面を物語る一例とも言えます。
最終的に、なかなか優れたDTP技術を持ち、また正直な取引をしてくれるところにお願いできたのは、本当に よかったと思っています。
3.用語・文献について
私は全くの外部者ですから、用語や文献集めにはずいぶん苦労しました。「神権的」言葉づかいに慣れるのはそれほど困難なことではありませんが、これ を書き連ねるとわけのわからない日本語になります。
英語におけるエホバの証人的言い回しは、確かに特殊な感じはしますが、とりあえず普通の英語を使っていますので、「ああ、この言葉をそういう風に 使っているんだな」と思いながら読み進むことができます。ところが、日本語版「ものみの塔」的用語というのは、そのようにやや特殊に使われた英語を、これ また特殊な具合に直訳してあることが多いので、結果としてかなり異様な言葉づかいとなります。
したがって、「神権的」用語については日本語版「ものみの塔」出版物の訳語にできるだけ合わせようという方針で翻訳した私としては、思わぬ苦労をす ることになるわけです。「奉仕の僕」「巡回監督」などの組織用語をいかにもぐり込ませるかを考え、「予言」と「預 言」の使い分けなど二回ほど全部やり直し、「エワート」という人名など、普通に英語名を日本語表記するということから考えるとおかしいわけですが、ものみ の塔文献でそうなっているのでそのままにし、「ベス・サリム」と「ベト・サリム」両方の表記があるので、より決定版的な文献で採用されている後者を選び、 等々、挙げればキリがありません。
また、古いものみの塔文献については日本語版がありませんから、それなりに訳語を統一しながら勝手に訳しま す。ラッセルの奇妙に厚みのある人格を感じさせる文章はそれらしく、ラザフォードの狂おしい、ヒステリックとも言える文章もそれらしく、日本語にしまし た。(そんなことを3時間も続けているとこっちの頭がおかしくなりそうになります。そんなときには川辺の散歩に出かけたものです。)
― 等々ありましたが、とにかくきちんとした日本語訳を作ろう、そうすれば皆さんの役に立つだろうの一心で、自分なりの最善を尽くしてみました。どんな細かい ことでも、ご意見など頂ければ幸いです。フランズさんも言う通り、
「私にはっきりと感じられるのは、終わりに近づきつつある人生を省みて本当 に何らかの満足をもたらしてくれるのはただ一つ、その人生が他の人たちのためになった度合いだということである」(『良心の危機』422ページ)
4.【オマケ】第3版で削除された部分(「群れを牧する」:原著2版3刷では328-335ページ)について
そんな部分が、あります。アイルランドのエホバの証人の間で指導的立場にあった二人がフランズ氏に会う。し かる後に話し合いを求めてブルックリン本部に電話をするが、この上なく冷たいあしらいを受ける。(この電話の録音テープがアイルランド支部に送られていた ことが後でわかる。)その後、統治体のメンバーがアイルランドにやってくるが、やはり話し合いを持とうとしない。やがて二人の身辺はあわただしくなり ― という話です。
ところが、2版翻訳の段階で削除の提案。「もったいないのでは?」と言った私への返事は:「…やはりあの部 分は入れないのが良いと思う。うち一人のその後の行ないが極めて深刻であるため、そう思わざるを得ない。…これを入れて困ったとき打つ手も思いつかない し。」(1999年5月21日付手紙より)でした。エホバの証人をやめたあと、決して人間として感心できない言動に及ぶ人は多いようです。